日本テリア JKC千葉東日本テリアクラブ

アクセスカウンタ

zoom RSS 日本テリア JKC千葉東日本テリアクラブ募集中 政府により、このまま、封印されてしまうのか?吉田調書

<<   作成日時 : 2014/06/25 23:59   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

日本政府は住民のパニックを恐れていた!
【吉田調書を通じて見えるもの】第76回「小出裕章ジャーナル」








 28時間、400ページ

吉田調書は全7編で構成されている。

総文字数はおよそ50万字。

A4判で四百数十ページに上る分量になる。

吉田氏への聴き取りは13回中11回が

福島第一原発から南へ20km離れた

サッカー施設 J-VILLAGE JFAアカデミーの

ミーティングルームで、

残る2回が吉田氏の仕事場である

福島第一原発免震重要棟でおこなわれた。

政府事故調は772人から計

1479時間にわたって聴き取りをおこなった。

吉田調書はその一環で作成された。

対象1人当たりの平均聴取時間は2時間弱。

吉田氏への聴取時間は

28時間あまりで、あの瞬間、どう行動し、

何を考えていたかまで聴き取った。

畑村洋太郎・政府事故調委員長は、

ほかに吉田氏の公式の調書がないことから

「貴重な歴史的資料」と呼んだ。

というような重要な資料である。

朝日新聞は、「吉田調書」を入手されたんだから、

全文、一冊の書物にして

世に問うべきではありませんか。

ジャーナリズムはいかにあるべきか、問いたいです。
   



★検証資料としてアップしておきます★

■朝日新聞 2014年6月4日11時53分
【吉田調書】第3章・ヒトが止められるか
 1. 『決死隊』は行った


最後の最後まで、手動でやるしかない。

東日本大震災発生翌日の2011年3月12日午前4時45分ごろ、

福島第一原発の1・2号機の運転員が詰める中央制御室に、

ある装備品が届けられた。

顔をすっぽり覆うマスクと、

限度いっぱいの100ミリシーベルトの放射線量を

浴びるまで作業が続けられるよう、

80ミリシーベルトになるまで警報音がならないよう調整された

『APD』すなわち警報付きポケット線量計だった。

この白いもやもやというのは、聞いたときに何だと。

吉田 「蒸気だと思いました」

やはり、何かどこか漏れているんじゃないかと

いうような認識だったんですかね。

吉田 「はい」

その後、4時30分ごろなんですが、

余震による津波の可能性から中央制御室の方に、

現場操作の禁止が指示されると書いてあるんですが、

これは、ようするに余震の影響というのもあったんですかね。

吉田 「あります。

この辺、ちょっとデータを覚えていませんけれども、

震度5強とか6近い余震がこの晩、結構起こりましたので、

その都度現場退避をかけていましたから、

そういう状況での作業になります」


それで、これを見ますと、4時45分ころ、

発電所対策本部より、

100ミリシーベルトにセットしたAPDと全面マスクが

中央制御室に届けられると。

どうも決死隊じゃないですけれども、

そういう方向に、このころ流れていっているということなんですね。

この後なんですけれども、

班編成を組んだり、2名1組の3班態勢ということで

これも誰が行くのかというところで、

これを見ると、結局、上の当直長、副長という、

その班のトップ、かなり年をとっているというと語弊がありますけれども、

ようするに若い人よりも年をとっている人が優先的に

班編成を組んで行かれているという状況なんですかね。

吉田 「はい」


この辺の班編成をどうするとか、

そこはもう当直の方に任せているわけですか。

吉田 「任せています」

=写真説明あり=

非常用復水器が停止していることが見逃され、

長時間にわたり原子炉が冷却されていなかった1号機は、

12日に入ったころにはすでに危機的な状況になっていた。

午前2時30分、原子炉格納容器の圧力は

最高使用圧力のほぼ2倍にあたる840キロパスカルに達した。

これ以上になると壊れて、

中の放射性物質を外界にばらまく恐れのある水準だ。

格納容器からすでに分子の小さい水素や水蒸気が漏れ出しているのか、

原子炉建屋の中は白いもやに覆われていた。

圧力が限界近くまで上がっていることを示す現象だ。

格納容器破壊を免れるには、

中の気体を抜くベントを実行するしかない。

ベントは通常なら、中央制御室に居ながらにして、

ごく簡単な操作で実行できる。

しかし、強い地震の揺れと津波に見舞われ、

電源をすべて失ってしまった1号機においては、それは至難の業だった。

ベントは、開け方の違う二つの弁を開けなければならない。

二つの弁が開いた状態で、

格納容器の圧力があらかじめ設定した水準に達したら

『ラプチャーディスク』と呼ばれる円盤が破れ、実行される。

2つの弁のうち『AO弁』と呼ばれる弁は、

中央制御室からのスイッチ操作で電磁弁を開け、

『アキュムレーター』すなわち蓄圧装置にためられた

圧縮空気を弁に送り込み、弁を開ける。

したがって、電磁弁を開ける電源が枯渇している現状では開かない。

もう一方の『MO弁』と呼ばれる弁は、

単純に電気モーターの力で開ける弁だから、

これも電源が枯渇しているため、開かない。

なんとかならないかと、

壊れた事務本館から持ってきた図面などをもとに

弁の構造を調べたところ、

MO弁は1〜3号機すべてに

手で回せば弁を開けられるハンドルがついていることがわかった。

そして、AO弁も、1号機に限り『小弁』と呼ばれる予備弁の方には

同様のハンドルが付いていることがわかった。

これなら弁のところまで人が行けば開けられる。

しかし、言うはやすし、行うは難しだった。



できないというのは、何ができないんですか。

吉田 「だから、さっき言いましたように、電源がないですね、

それからアキュムレーターがないので、

いろいろ工夫しているわけですね。

その間に圧力を込めに行ったりとか、

電源の復旧だとかやっているんだけれども、

どれをやってもうまくいかないという情報しか入ってこない。

最後の最後、手動でやるしかないという話で手動でいくんですが、

手動でいって、ドライウェル側のMO弁というバルブは、

結構重たいので被曝するんですけれども、

これは何とか開けた、だけれども、

ドライウェルのサプレッションチェンバーから出てくるライン、

ここのバルブにアクセスしようとするんですが、

線量があまりにも高過ぎて

アプローチできないという状態で帰ってくるわけですね。

そんな状態が続いているので、

また、それをもう一度アキュムレーターから動かすのをチャレンジしろとか、

やっとそのころにコンプレッサーの車が来たりとか、

役に立ったりとか、そんな段階で道具もそろっていない中、

いろいろやるんですけれども、

なかなかうまくいかないということなんです」

「ここが、今の議論の中で、みんなベントと言えば、

すぐできると思っている人たちは、

この我々の苦労が全然わかっておられない。

ここはいら立たしいところはあるんですが、

実態的には、もっと私よりも現場でやっていた人間の苦労の方が

ものすごく大変なんですけれども、

本当にここで100に近い被曝をした人間もいますし」



=写真説明あり=

人が現場に行きさえすれば、

ベントを実行するための弁が二つとも開けられるかも知れないことがわかった。

しかし、余震は続いており、現場に近づくことは危険を伴った。

本震がマグニチュード9.0と巨大地震だった東日本大震災は、

3月11日と12日の2日間にマグニチュード7.0以上の余震が3回、

6.0以上が48回、5.0以上は281回あり、

実際、福島第一原発所長の吉田昌郎は、何度か退避命令を出した。

それより何より、

現場では毎時300ミリシーベルトもの高い放射線量が観測されていた。


―― 線量があまりにも高過ぎて


中央制御室の運転員たちはそこで2人組の班を3班つくることにした。

構成員6人は、若者でなく、

運転員を束ねる年かさの当直長と副長から選ばれた。

理由は熟練度だけでないことは明白だ。

3班態勢としたのは、作業に小一時間かかるとみられたからだ。

80ミリシーベルトを浴びたら作業を終えるようにしないと

限度の100ミリを突破してしまう。

そう考えると作業時間は16〜17分が限界で、

1班態勢では作業を完遂できない。

午前9時4分、第1班の2人がMO弁のある場所に向かった。

重いハンドルを回しバルブを25%開けた。

続いて第2班の2人がAO弁の小弁を開けに出発した。

が、そこへ行く途中で携行型放射線量計が鳴り出しやむなく引き返した。

AO弁は原子炉格納容器下部の圧力抑制室の近くにあり、

MO弁より場所的に厳しかった。第3班はそもそも行くのを断念した。

ベント作業は振り出しに戻り、

強力な空気圧縮機を放射線量の低いところでつなぎ込み、

遠くから空気圧をかけて開ける方針に変更した。

このやり方も、アキュムレーター自体か、

圧縮空気を送り込む管が地震にやられていたのか難航し、

東電がベントができたと判断できたのは、

決死隊突入から5時間半後の、午後2時30分だった。

高い値の放射線量や爆発の危機は、

ありとあらゆる作業を阻み、事故収束作業を遅らせた。




11時1分に爆発を起こしてからの対応なんですけれども、

いったんは作業は。


吉田 「全部中止」



現場から引き揚げるということになるわけですね。

それから、次に再開をすることがどこかの時点でありますね。

それはどういう情報が入ってきて、どういう判断で行こうと思ったんですか。

吉田 「どういう情報が入ってきたというよりも、

1号機のときと同じく、結局、爆発しているわけですから、

注水ラインだとか、

いろんなラインが死んでしまっている可能性が高いわけですね。

1号機の注水、3号機の注水を実施していますし、それが止まっていると。

それ以外のいろんな機器も壊れている可能性が高いわけですから、

一通り確認して死亡者がいなかったことと、

傷病者についてはJヴィレッジに送って手当てしてもらうということをした上で、

そのときにみんなぼうぜんとしているのと、

思考停止状態みたいになっているわけです」

「そこで、全員集めて、

こんな状態で作業を再開してこんな状態になって、

私の判断が悪かった、申し訳ないという話をして、

ただ、現時点で注水が今、止まっているだろうし、

2号機の注水の準備をしないといけない、

放っておくともっとひどい状態になる。もう一度現場に行って、

ただ、現場はたぶん、がれきの山になっているはずだから、

がれきの撤去と、がれきで線量が非常に高い。

そこら辺も含めて、放射線をしっかり測って、

がれきの撤去、必要最小限の注水のためのホースの取り換えだとか、

注水の準備に即応してくれと頭を下げて頼んだんです」

「そうしたら、本当に感動したのは、

みんな現場に行こうとするわけです。

勝手に行っても良くないと逆に抑えて、

この班とこの班は何をやってくれ、

土建屋はバックホーでがれきを片付けることをやってくれというのを決めて、

段取りして出ていって、そのときですよ、

ほとんどの人間は過剰被曝に近い被曝をして、

ホースを取り替えたりとかですね」

「やっとそれで間に合って、

海水注入が16時30分に再開できたんですけれども、

この陰には、

線量の高いがれきを片付けたり、かなりの人間が現場に出ています。

11時1分〜12時30分は何も書いていないのが腹立たしいし、

この前に私がちゃんと退避をかけたのも書いていない。

どういう時系列なのか、よくわからない」



交流電源を失った福島第一原発1〜3号機では、

用意していた緊急炉心冷却システムがどれも動かず、

消防車とホースを使って原子炉に水を入れ、核燃料を冷やしていた。

3月14日午前の段階では、

水源は3号機のすぐ海側の逆洗弁ピットと呼ばれるくぼみの水だった。

消防車がその水を吸い上げ、ホースを使って

1号機と3号機の送水口から原子炉に注入していた。

午前11時30分からは、3号機への注水量を絞り、

1号機への注水量を増やすという現場作業を予定していた。

それが、午前11時1分に起きた3号機の爆発で、できなくなってしまった。

現場から逃げるときにホースが破れているのを

見たという作業員がいる、との報告も入った。



=写真説明あり=



福島第一原発所長の吉田昌郎は午後0時37分、

2度の爆発で落ち込む所員に対し、

「悪いけどよ、こんな時に悪いけどよ」と言い、

所員に注水量変更、ホースの点検、

水源としている逆洗弁ピットに降り積もったがれきの撤去作業に行くよう命じた。

がれきはただのがれきではない。

高い放射線を放つものも含まれていた。

吉田はさらに午後2時13分、「特別にチームを編成して」という言い方で、

高放射線がれきの片付けにあたる人員の増強を命じた。

通信状態が悪いためか、

先発隊からなかなか連絡が来ずあせっていた。

ただ、片付けておかないと後の原子炉への

注水に重大な支障を来すと考えた。


『決死隊』という言葉は東電のテレビ会議録に、

2011年3月14日夜までに限っても、2度記録されている。

1度目は2011年3月13日午後3時49分のことだ。

吉田は、2号機の海水注入ラインを再構築するため、

所員に現場に戻るよう命令した。

その検討にあたって、「じじいの決死隊で」と述べた。

そのころ福島第一原発は、3号機の原子炉建屋の中で、

1号機の水素爆発の直前にも見られた“もやもや”が発生しているのが確認され、

屋外の作業員は免震重要棟に引き揚げていた。

だが、どうしてもやらなければならない作業だとして、

やむなく再び現場に向かわせた。

もう1回は3月14日午後6時10分のことだ。

2号機の原子炉圧力容器の圧力を下げようと、

中の蒸気を逃がすSR弁という弁を開けようとしたが、

なかなか開かないときだった。

弁を開けるのに必要な窒素ガスの圧力が弱っていることを疑い、

所員が、高い放射線量の中、

窒素ガスのボンベの交換に赴くとき、東電本店の担当者がこの言葉を使った。

福島原発事故発生時、

作業員の緊急時の被曝限度は100ミリシーベルトまでと定められていた。

それが発生3日後の3月14日午後2時3分、

原子力安全・保安院との調整で一気に250ミリシーベルトに引き上げられた。

これを聞いた原子力担当副社長の武藤栄はおもわず

「250ってのは相当に限界的な数字なので、

しっかり守ることが大事だと思います」と応答した。

政府による限度引き上げで、

限度が近くなっていた作業員は

もうしばらく現場作業を続けることが制度上は可能となった。

生身の人間の放射線への耐性が上がったわけではない。

作業員の健康リスクの増大と引き換えに

事故の収束作業は続けられた。 《文中敬称略》






20140521吉田調書


■朝日新聞 2014年6月5日11時40分
【吉田調書】第3章・ヒトが止められるか 2. 叡智の慢心


我々の一つの思い込みだったのかもわからない。


2011年3月11日午後2時46分、

日本のはるか東方の太平洋の海底で超巨大地震が発生した。

東電福島第一原発所長、吉田昌郎は、

発電所の敷地のほぼ中央に位置する

事務本館2階の自室で書類に目を通していた。

揺れはだんだん大きくなり、棚の上のものが落ち、テレビがひっくり返った。

机にしがみつき、下に潜ろうとしたが潜れなかった。

所長室を出て事務室に入ると天井の化粧板が落ちていた。

本棚の書類が散乱し、ほこりが白く舞っていた。

原子炉を冷やすのになくてはならない電源がどこからも得られないという、

『AM』すなわち過酷事故時の対応を定めた

アクシデント・マネジメント策が想定していない事故の始まりだった。



電源喪失ですと、

電源融通を受ける先である隣も一緒にべしゃっとつぶれるということは

考えていないという状況がどうもあったようなんです。

その点に関しては、所長におかれては、AM策を整備する上で、

複数のプラントが同時に故障するという事態を想定していたかとか、

していなかったとか、もしくは全然考えが及んでいなかったか、

その辺りはいかがでしょうか。

吉田 「一言で言うと、設計ベースの議論がされていたのはわかっていますけれども、

設計の中でも、今、言ったみたいに、

定説としてという言い方はおかしいんですけれども、

我々の基本的な考え方は内部事象優先で考えていたということです。

私は入社してから今まで、あまりタッチしていないんですけれども、

ようするに、原子力の設計の考え方はそういう考え方だということは承知していた。

今度、運用側に回った際に、

運用側で同時に今回のような事象が起こるかということを

あなたは考えていましたかという質問に対して言うと、

残念ながら、3月11日までは私も考えていなかった」





今後に生かすという観点からなんですけれども、

どうしてそういう考え方になってしまったのだろうか。



吉田 「一つは、同時にいったという意味で言うと、

柏崎の中越沖地震は同時にいったんです。

同時にいったんですけれども、我々としては、

プラントが止まって、えらい被害だったんですけれども、

ようするに、無事に安全に止まってくれたわけですよ。

安全屋から言うと、次のステップはどうあれ、

安全に止まってくれればいいという観点からすると、

あれだけの地震が来ても、ちゃんと止まったではないの、

なおかつ、後で点検したら、

設計の地震を大きく超えていたんですけれども、

それでも安全機器はほとんど無傷でいたわけです。

逆に言うと、地震は一気に来て、

全プラントを止める力を持っているけれども、

それは止まるまでの話であって、それ以上に、

今回のように冷却源が全部なくなるだとか、

そういうことには地震でもならなかった。

設計用地震動を大きく何倍も超えている

地震でそれがある意味で実証されたんで、

やはり日本の設計は正しかったと、

逆にそういう発想になってしまったところがありますね」


=写真説明あり=


吉田は地震直後、

『GM』すなわちグループマネージャーに安否確認をするよう指示を出し、

午後3時ごろには、ユニット所長・発電部長・保全部長らとともに、

免震重要棟2階の緊急時対策室に入った。

すると、まず、

運転中の1号機・2号機・3号機が無事スクラムしたとの報告が上がってきた。

スクラムとは、

核分裂反応を抑える働きがある制御棒が一斉に核燃料の間に挿入される動作のことだ。

大きな揺れを感じると自動的に挿入される仕組みで、

これがうまくいったとの知らせだ。

核分裂反応はとりあえず収まり、

原子炉は核分裂反応が連続して起きる臨界状態から脱する。

原子炉は最初の手続きを正常に終えた。




「3月11日までは私も考えていなかった」



一方、発電所への外部からの電源供給が途絶えたらしく、

バックアップの非常用ディーゼル発電機が起動したとの報告が入った。

後に送電線の鉄塔が地震で倒壊したのが原因とわかるが、

その瞬間は、

非常用の発電機が動いたのだから外部電源はどこかでいかれたのだろう、

というぐらいのことしかわからなかった。

続いて、福島第一原発を大津波が襲った。

免震重要棟は海岸線から少し離れた丘の上にあるため、

吉田はこれも何が起きたのかすぐには状況をつかめなかった。

「1号機の非常用ディーゼル発電機が止まり、

すべての交流電源が失われた」「続いて3号機でも」「今度は2号機です」。

情報はぽつりぽつりと舞い込んだ。

それらがつなぎ合わされ「ということは

発電所全体が津波に襲われたのではないか」と推察された。

発電所内のすべての電源が失われることもありうる。

吉田は、ここでようやく大変なことになったと気付いた。

東電の『安全屋』すなわちアクシデント・マネジメントの策定者は、

すべての事象や条件を網羅していると錯覚させるぐらい細かい想定をし、

対応策を作り上げている。

しかし、対策として打つ手のほとんどは電源があって初めて有効に働くものだ。

すべての電源が失われることはない、という前提がそこにはある。

「はっきり言って、まいってしまっていた」という吉田は、

アクシデント・マネジメント策にない方法をこれから編み出すことにした。



最終的には電源融通が受けられるという前提であったようですけれども、

そのもう一つ先、

電源融通元もだめになる場合ということは想定していらっしゃいましたか。


吉田 「だから、確率の問題だと思うんです。

極論しますと、これは経験の範囲の議論になってしまうんです。

ようするに、インターナショナルで、

全世界で原子力発電所は400とか500とかありますね。

実験炉は別にして、商業炉でも昭和四十数年ぐらいから動き始めまして、

炉年で言えば、ものすごい、400基で平均で20年運転していれば、

世界じゅうで8000炉年ぐらいの運転経験があるわけです。

そこでいろんなトラブルを経験しているわけですけれども、

今、おっしゃったように、今回のような、電源が全部、

あて先も涸れてしまうということが起こっていないわけです。

そこが我々の一つの思い込みだったのかもわからないですけれども、

逆に自信を持っていたというか」



今回、振り返ってみたときなんですけれども、

まず、消防車を水源とする代替注水というのは、

ちゃんと文字で、AMとして整備しておけばよかったなとは思われますか。

吉田 「今からだったら思いますよ。

だけれども、私自身も、賭けだと思ったのは、

本当にFPラインで入るんだろうかというのは、

最後の最後までわからなかった。

減圧してFPが入るような炉圧にまで下げないといけないではないですか。

ということは、水位が下がるではないですか。

そこでFPで水を入れるわけでしょう。だけれども、

FPのラインがどこかで地震でたたき切れていたら、

いくら入れても入らないですね」



建屋の中のFPは大丈夫だろうという見込みの下に期待はされていた。



吉田 「もちろんありましたよ。

私も柏崎の地震のときに、あの地震でも、

タービン建屋、リアクタービルのFPのライン、

私は全部見て回りましたけれども、一部変形していますけれども、

たたき切れているところはなかったですから、

ある意味、現実的には、

たぶん、もってくれるだろうなと思っていましたけれども、わからないですからね。

実際、あの地震が来て、建屋の中は。最後は賭けですよ。

FPのラインが健全かどうかというのは。

でも、それしかないですから、そこを使って入れたということです」


=写真説明あり=



吉田が賭けたのは、原子炉に張り巡らされた消火ラインだった。

アクシデント・マネジメント策には、

D/DFPすなわちディーゼルエンジン駆動消火ポンプを使って、

この消火ライン経由で原子炉に水を注ぎ込む策までは記されていた。

しかし、吉田はこのディーゼルエンジン駆動のポンプでは

圧力が弱過ぎて原子炉の圧力が高くなってくると水が入らなくなるので、

より圧力の強い水を吐き出せる消防車をこの消火ラインにつなぎ込む策を思いついた。

併せて、水は淡水に限らず、

海水も使って原子炉を冷やそうと決めた。

消火ラインは原子炉周辺の重要機器に比べると耐震性が低く、

地震で壊れている可能性があった。

しかし、東電本店の原子力設備管理部長として

2007年7月の新潟県中越沖地震での

柏崎刈羽原発の傷み具合をつぶさに観察していた吉田は、

これは使えると踏んだ。

水の方も、

中越沖地震の際、変圧器が燃えてなかなか消し止められなかったことが批判され、

各原発で防火水槽を増設してあったが、

それだけではとても足りないと思い、早いうちから海水の利用を決心していた。



夏のヒアリングでも、南明興産とか、協力の方々との関係で、

当然、業務内容は火を消すという内容だったんで、

代替注水として協力するという話になっていなかったということもあって、

協力を得るのがなかなか大変だったとか、

あと、消防車を水源とする代替注水の話、動き出しが遅れるような状況も、

あらかじめ文字で書いておけば、もう少し、その状況は。


吉田 「今から思えばそうでしょうと思いますけれども、

前の段階に返ったときに、

AMのいろいろな仕組みを考えた人たちがそこまで考えていたかというと、

まったく考えていなかっただろうと言いたいだけの話です。

AMの連中は、後からがやがや言うんですよ。

私はこの会社の安全屋は全然信用していない」(中略)




頭では海水を入れるという可能性も認識していることはしていたけれども、

実際に、本当に海の水を最後に入れることになるというふうに考えていない?


吉田 「ないですよ。もしも考えていれば、

それこそ海の水を吸い上げるようなラインを別に設計しておくべきです。

3号機のバルブピットのところにたまった津波の海水をまず水源として使うだとか、

現場の工夫だけでやってきたわけですから、

事前のアクシデント・マネジメントを

デザインして決めた人は誰も考えていないですよ。

私から言わせれば、形だけ検討しているんですよ。

私だって、大元を決めていないけれども、

それに従って発電所の運営して、所長もやっているわけですから、

そこに思い至らなかった自分は非常に恥ずかしいと思いますけれども、

最初にそれを想定していろんな仕組みを考えた連中の中に、

本当にそこまで覚悟を決めて検討した人がいるかどうかというと、いないと思います」



=写真説明あり=



消防車を使うこと、および海水を使うこと。

吉田のこの2つの創意について、政府事故調はあまり評価していないことが、

聴取の流れから読み取れる。

事故調としてはやはりアクシデント・マネジメント策に従うことが最善で、

それができないのはアクシデント・マネジメント策が

不備だったからだという整理をしているように見える。

しかし、実際、過酷事故と向き合った吉田にとっては、

そんなことはどうでもよかったようだ。

吉田は、

アクシデント・マネジメント・ガイドを開いて見たとか参考にしたことはあるか、

との質問に「まったくないです」「私は開いていません」と答え、

逆に人による事前の想定などいかに役に立たないものであるかを説いた。

吉田はまた、日本の原発は、

故障に関しては内部事象優先で設計されており、

津波や竜巻、飛行機の墜落、テロといった外部事象によって複数の

原発が同時に故障するとは考えていなかったと説明した。

こうした考え方は、

2007年の新潟県中越沖地震で柏崎刈羽原発において

複数の原発が同時にやられるという事象が起きた際に改められる機会を得たが、

原子炉がすべてうまく冷却できたことで、

逆に「正しかった」とされてしまったと主張した。

人がおこなう想定は「経験の範囲」でしかできないとし、

きちんと想定してあらかじめ文字にしておけばうまくいったのではないか、

などというのは後からだから言える話だ、とも主張した。

吉田が述べたこれらの観点は、

将来に向けた議論に資すると思えるが、

政府事故調査・検証委員会の報告書からは読み取ることはできない。 

《文中敬称略》






20140521吉田調書


■朝日新聞 2014年6月9日

【吉田調書】 エピローグ:水面が見えた

東日本大震災発生3日後の2011年3月14日午後11時ごろ、

在日米国大使館のジョン・ルース大使は

枝野幸男官房長官との電話会談で

「アメリカの原子力の専門家を官邸に常駐させてほしい」と申し入れた。

米国が原発事故の収束作業の進め方に不信感を抱いている表れだった。

米国は本国でも藤崎一郎駐米大使を何度も呼んで、懸念を伝えた。

米国の懸念の中心は福島第一原発4号機の核燃料プールだった。

在日米国大使館は2011年3月17日、

福島第一原発から50マイル圏内の米国民への避難勧告を出した。

50マイルはメートルに換算すると80kmになる。

日本政府が出していた避難指示の、距離で4倍、面積にすると16倍に及ぶ。

日本の避難指示が不十分だと言わんばかりの勧告だが、

根拠がないわけではなかった。

米原子力規制委員会のグレゴリー・ヤツコ委員長が前日の16日に、

プールの水は空だ、と発言していたことだ。

4号機の核燃料プールには、

新燃料204体と使用済み核燃料1331体が入っていた。

うち548体はつい4カ月前まで原子炉内で使われていた。

そのため、4号機のプールの核燃料の崩壊熱は、

例えば3号機のプールの核燃料より4倍も高かった。

プールの核燃料は、原子炉装着中と違って、

鋼鉄製の圧力容器および格納容器に守られていない。

さらに、外側の原子炉建屋は3月15日に水素爆発で吹き飛んでいるため、

冷却が止まって発火し燃え上がると、

プルトニウムやウラニウムなど猛毒の放射性物質を

そのまま外部環境に放出してしまう。

そうなると福島第一原発はもとより、

わずか10kmしか離れていない福島第二原発も人が近づけなくなり、

2つの原発にある核燃料入りの原子炉と核燃料プールが

すべて制御不能になると恐れられた。



=図での説明あり=


日本政府は3月25日になって、近藤駿介原子力委員会委員長に、

原発が人の手で制御できなくなれば強制移転区域は半径170km以上、

希望者の移転を認める区域が東京都を含む

半径250kmに及ぶ可能性があるという最悪シナリオを描かせた。

だが、米国は3月16日の時点で、

4号機の核燃料プールはすでにその危機的な状態に陥っていると判断していた。

ところが、日本の最悪のシナリオは現実のものとならず、

米国の判断も間違っていた。

では、なぜ日本の最悪のシナリオや米国の中心的懸念は回避できたのか。

重要な考察を『吉田調書』を引用しつつ記し、本エピローグをしめくくる。

シリーズでは、原発は誰が止めるのか、住民は本当に避難できるのか、

原発はヒトが止められるものなのかを考えてきた。

『吉田調書』の分析・検証作業は終わらない。 《以下、文中敬称略》




確認したかったのは、

4号機の燃料プールなどが水温も上がっていて、

ここに対して冷やさなければいかぬとか、

ヘリなどで確認する前の段階だと水位が下がっているのではないかとか、

いろんな推測が立つわけです。

4号機の方に力を入れようかというところで、

先ほど確認した優先順位のところでも1番目に1F4ということが書いてあって、

実際に3月17日にやったときというのは、

91番のところですけれども、

3号機の使用済み燃料プールを冷却するためとなっていて、

4号機から3号機へ移っている経緯はどういうことですか。


吉田 「時間は忘れましたけれども、17日の午前中にヘリコプターが飛びました。

注水のヘリコプターではなくて、上空から偵察のヘリコプターです。

これは自衛隊さんだったと思うんですけれども、

飛びまして、それにうちの社員も乗っていまして、

ビデオ撮影をしたんです。

そうすると、4号機の燃料プールにどうも水がありそうだ、

残っているみたいだ、水位が見えた」

東日本大震災発生5日後の2011年3月16日午後11時33分。

東電本店にある政府・東電の福島原子力発電所事故対策統合本部で、

自衛隊のヘリコプターに乗った東電社員が

この日午後5時前に撮影したビデオの上映が始まった。

吉田が17日の午前中にと言ったのは16日の夕刻の誤りだった。

ビデオは、米国が空っぽだという4号機の核燃料プールに

水面が見えた瞬間が映っているということで、

急きょ分析することになった。

「トラスの溝がちょっと水面に映っているのが見えるんですよ。

だからここのところまで満水している」。

統合本部にいた人間で、 激しく揺れ動く映像を見て、

最初に4号機の燃料プールに水は残っていると断言したのは、

東電顧問の峰松昭義だった。

福島第一原発1号機着工の翌年1968年にはもう東電に入っていた原発技術者だ。

年齢は吉田のちょうど一回り上になる。

「ほかと比べて一桁高い熱量を持っている使用済み燃料プールで、

何日も経っていて、なんでそんな水があるのだろう」と、

水が残っていることに懐疑的な東電フェロー武黒一郎を尻目に、

峰松は1枚の図をもとに解説を始めた。


=図での説明あり=


峰松によると、

原子炉の真上の原子炉ウェルという部分に張ってあった水と、

原子炉ウェルにつながる『ドライヤー・セパレーター・ピット』

と呼ばれる放射線を発する機器を水中で管理するプールの水が、

核燃料プールと原子炉ウェルの境にある仕切り板にできたすきまから、

核燃料プールに流れ込んだ。

仕切り板は核燃料プールの水が

満水状態だとその水圧でピタッと押し付けられすきまができることはないが、

核燃料の崩壊熱で満水状態でなくなったために押し付ける力が減ったか、

爆発の影響で板が少しずれてすきまができたという。

原子炉ウェルとドライヤー・セパレーター・ピットの水は合計で1440トン。

核燃料プールの1杯分強もある。峰松の言う通りだとすると、

アメリカがとことん心配する4号機の核燃料プールの危機は去る。

検討の末、4号機の核燃料プールは水が十分残っていると判定された。

固唾を飲んで見守っていた首相補佐官の細野豪志は、

水面が確認されたとき、

統合本部内に「おーっ」との声が上がったのを覚えている。

でも、原子炉ウェルは、普段は水が張られない空間だ。

どうしてそんなところに水があったのだろう。

東日本大震災3カ月前の2010年12月29日、

福島第一原発4号機でシュラウドと呼ばれる

原子炉内最大の構造物の取り替え工事が始まった。

シュラウドは1978年の運転開始以来、32年間ずっと使われており、

初の交換工事だった。

シュラウドは高さ6.8m、直径4.3〜4.7mと大きいので炉内で切断し、

ばらばらにした後、

一つずつ引き上げてドライヤー・セパレーター・ピットに移す手順が組まれた。

また、シュラウドは長年炉内にあり、

自ら放射線を発するようになっているため、

原子炉ウェルとセパレーターピットに水を張って、

すべて水の中を移動させる形で工事を進めることにした。

実際、12月3日に水は張られた。

工事が始まってほどなくして、

シュラウドを切断する工具を炉内に案内・制御する治具と呼ばれる装置の設定が、

ほんの少し狂っていたことが判明した。

現場で急いで改造することになったが、

工期は全体的に2週間ほど後ろにずれてしまった。

古いシュラウドを切断して取り出した後、新しいシュラウドを入れるため、

原子炉ウェルは水を抜いて本来の姿に戻すことになっていたが、

その日程も2011年3月下旬に延びてしまった。

当初の計画では、原子炉ウェルを水のない状態に戻す日は2011年3月7日。

超巨大地震発生の4日前だった。 =おわり

               ◇
取材 宮崎知己・木村英昭
制作 佐久間盛大・上村伸也・末房赤彦・白井政行・木村円








画像






テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
日本テリア JKC千葉東日本テリアクラブ募集中 政府により、このまま、封印されてしまうのか?吉田調書 日本テリア JKC千葉東日本テリアクラブ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる